前回、
喜びとともに生きる
の中で「人生最大の困難は、人生最大のギフトをもたらしてくれました」
と書きましたが、それは結果論であって渦中の時にはそんなこと全くわかりませんでした。
どん底の時期にやたらと目にした「人生における困難は幸福への扉の前にいる」とか
「困難が大きければ大きいほど、喜びもまた大きなものとなる」などという言葉に対し、
「いやいや、そんな大きな幸福とかいらないから、この最低な状況から抜けることができれば、ごくごく普通でいいし」と私の自我はこの状況に不満を言っていました。
そして、どん底期の3年間と、リハビリ期の2年間を経過し、
ようやく人間として再生してみて感じるのは、やはりそれは真実でした。
ですが、特につらかったことは
「この困難がいつ終わるのか、全くわからないこと」
「底だと思ったら、さらに底があり、底なし沼にはまったような恐怖」
「頑張っても頑張っても這い上がるどころか、さらに転がり落ちていくことへの絶望」
でしょうか。
頑張る気力すら失せ、生きる意味も目的も失い、できることは全てやりつくしてしまった時に、わたしの世界はぐるんと反転し、ほんのかすかに光がさし始めました。
「陰極まれば、陽に転ず」という言葉の通り、
冬が終わり春になれば芽を出すように、陰が極まり切れば陽に転じていき、
美しく咲いた花はやがて枯れていくように、陽が極まり切ればまた陰に転じていく
それが自然なリズムであり、そこにいい悪いがないように、
起こる現象に対し「自分にとって都合がいいこと」を喜び、
「自分にとって都合の悪いこと」を嘆き悲しむという行為そのものが
苦しみを生み出すことを理解しました。
何かが起きても起きなくても、自分にとって好みであってもそうでなくても、
どちらでもよく、全てをただ受け入れることができるようになった時、
長い長い苦しみから、やっと解放されました。
文・写真 EIKO